(F-4E / 67-0251)
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(F-4E / 74-0647)
F-4E  57th TTW
1980年3月にネリス空軍基地で見る事が出来たF-4E型の部隊の一つが、ここをベースにF-4Eをはじめ、F-5/F-111/A-10など多くの機材を用いて訓練や兵器の運用試験にあたっていた第57戦闘機訓練航空団(57th TTW)である。有名な”レッドフラッグ”演習の主役/脇役もこなすベテランぞろいの部隊でもあった。F-4Eは1971年から1985年までの約15年間も使われたようだが、それまではF-4DなどあらゆるF-4ファントムのタイプを使用していたらしい。下写真のもあるように、1970年代末期にはオーバーラル・カモフラージュなど新迷彩も同隊には登場し、同一部隊でも様々な塗装が混在し、迷彩効果の評価が行われていたはずである。そのようなことから、我々が写真を撮る上でも楽しめる被写体であった。同航空団は、2023年現在は第57航空団(57th WING)と言う名称になっている。
↑ 私のスライドでの写真は3枚と少ないが、これは1980年の時点で 徐々に導入され始めていたオーバーラル・スキームの機体F-4E(74-0655)。機体の下面まで迷彩に包み込んだファントムは、迫力が出ている。しかも 迷彩色の組み合わせも グリーンを多く使うことにより暗い塗装になっている。左翼の付け根には、コンバット・カメラが付いており、DACTの状況を記録できるようになっている。
1980年代の後半だったと記憶するが、アメリカの二級映画になるが、「レッドフラッグ 極限の空中戦」(英名 Red Flag The Ultimete Game -1981制作)と言う映画をレンタルビデオショップで発見、早速借りてみる事にした。最初は期待していなかったが、映画のシーンはネリス空軍基地での実写が中心で、とても良い出来栄えの作品だった。この映画の中で主役を演じていた機体が「WA」のF-4Eで、冒頭のシーンから出てくる。ベトナム上空でMig相手に空戦を経験した事もある主人公フィルは、部隊の同僚と共に何週間かのレッドフラッグ演習参加の為ネリス空軍基地を訪れた。宿は、彼の妻それに新婚の同僚(WSO)夫婦と共にラスヴェガスに取り、ご婦人方はバカンス、夫達だけがホテルからネリス基地に訓練通いの毎日であった。ある日、ラスベガスのレストランでばったり出会ったのは、ライバルでもありベトナム戦のエースでもあった旧友ジェイ、彼はレッドフラッグの敵役を演じるF-5E飛行隊のリーダーを務めていたのだ。フィルは、自分の腕のよさを鼻にかける旧友ジェイに対抗心を持ちながらも、ひたすら敵機が後ろについた時のF-4の回避方法を研究し 次第に空戦技術を磨いていった。ある日、主人公は新しく組んだ若いWSO(バックシーター)と見事に旧友の操縦する敵役F-5Eを模擬撃墜するが、若いバックシーターがそれをバーで吹聴、ジェイの同僚らを刺激した為、諍いとなる。後日これが原因で熱くなったジェイは、空戦で再びフィルの後ろを取った。しかしフィルの編み出した回避動作に追随できず、彼の乗ったF-5は地上に激突、殉職してしまう。空戦技術ばかりに囚われていた主人公は、ジェイの殉職事故に対して責任を感じ、旧友を失ったショックから転職も考える。空軍の事故調査委員会は事故に関してフィルに責任は無いとし、フィルがあみ出した回避方法への質問ばかりを行った。後日レッドフラッグの教官への招聘状がフィルの元に届き、大いに迷う事になる。結局妻の勧めもあり、考えたあげく若いパイロットの育成のために レッドフラッグ教官の辞令を受け取ると言ったストーリーであった。この主人公が乗っていたのが「WA」のF-4Eで、1980年3月に実際にこの目でこの部隊の飛行っぷりをネリス空軍基地で見た私は、懐かしさもあって、かじりついてこの映画見た記憶がある。
(F-4E /73-1160)
(F-4E / 67-0370)
(F-4E / 68-0373)
↑ ネットを通じビル・スピンドル氏から送っていただいたネリス空軍基地でのエプロンにおけるF-4Eの列線、F-4E(73-1164)は1979年にスイモワ・ジョンソンの4th TFWから移動してきた機体で 私の写真でも着陸のカットを掲載しているが 黄黒のチェックが書きいれられた。
(F-4E / 73-1164)
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(F-4E / 69-0307)
↑ 本機は、1990年にG型に改造されてフィリピンクラークの3rd TFWに移動したとされる。
(F-4E / 68-0303)
← 1980年3月57th TTWは、57th FWWに名称変更した。新しいインシグニアがこれである。
↑ タイトル写真左が主役のフィル、右がアグレッサー部隊のジェイだが、俳優としてはジェイ役のウィリアム・ディベンの方が格上の為、こう言った構図となっている。
↑ このような機体の下面もベトナム迷彩が施された背景には、ベトナムやヨーロッパでの森林地帯上空における格闘戦で、相手から自機の動きを読み取い難いように、上面と背面の塗装を同一化した訳だが、燃料タンクなども同じ処理をしないと効果は期待できない。
↑ この機体は、1980年3月のレッドフラッグ演習期間中、20㎜機関砲の標的曳航機として活躍していたが、1981年にスイモアジョンソンの第4戦術戦闘航空団(4th TFW)へ移動した。上一連のシリアルナンバーの近い機体は、ブロック60でどれもガンカメラを付けている新しい型であるが、数年後に殆ど4th TFWに移動したようである。
(F-4E / 74-0666)
第57戦闘機訓練航空団(57th TTW)は、その前身である4525th FWW時代にTAC(戦術空軍)として始めてDACT(異機種空中戦闘訓練)を行った。これは1967年のことであるが、当時のTACは余りDACTに興味を持たず、実験的な要素が強かったと言われる。むしろ海軍やADCOMの方が積極的であったそうだが、ベトナム戦での撃墜率のアベレージが朝鮮戦争の16:1から、ベトナム戦での最悪時期には敵との撃墜/被撃墜率が殆どイーブンにまでなったことから危機感を募らせた空軍が、ネバタ州のネリス空軍基地にアメリカ海軍の”TOP-GUN”を参考に専門部隊を1972年10月に設立したものである。当初はT-38を中心に使用していたが、F-5EやF-4Eなど様々な機体が加わるようになった。
(F-4E / 74-0658)
(F-4E / 74-0655)
(F-4E / 74-0665)